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古天神


古天神さんと呼ばれる華下天満宮は市内で一番古い神社ともいわれ、御神体は菅原道真の自画像「華下神像」です。

国司として讃岐へ赴任した菅原道真が、大宰府にて亡くなった時、現在の地よりも東の地に創建されたが、生駒親正の時代にお城の鎮守として「北向天神」と称して現在の地に社殿を改築されました。
現在の福田町は華下天満宮の社領だったといわれています。

境内の能書より

当社は片原町の天神さん、古天神さんあるいは北向天神として長く広く高松市民に親しまれた名高い神社である。
昭和二十年七月四日の高松空襲で社殿などを全焼したが且ては三百四十五坪余(一,一三八平方米)の境内に正殿、中殿、拝殿などが建ちならび、稲荷神社・琴平神社・石の大牛などもあって毎年九月二十五日の例大祭はもとより四季を問はず参拝者が訪れ境内にしる屋、ぜんざい屋があって市民のよい憩いの場でもあった。
祭神の菅原道真公は仁和二年(八八六)四月四日讃岐の国主として着任、其時この近くに上陸、まず長命院(戦前天神さんのあった土地)の住僧僧圭を訪れて休息、それから任地の国府庁(現坂出市府中町)に赴かれた。
四年後寛平二年(八九〇)正月任満ちて京都に帰られる時も。ここを訪れ、僧圭に別れを惜しまれて、ここから船出された。僧圭は其後道真公を慕うあまり、公の行き先の安泰を祈って院内に小祠を建てた。これが当社の始まりである。
その後延喜三年(九〇三)二月道真公は配所で亡くなられた。
これを聞い高松市民の住民はこの地から少し東に一社を建立したが生駒藩の時代になり初代親正候は高松城の守り神として入口を北にむけて社殿を改築した。北向天神の名はここから出ている。
古天神と云うのは中野天満宮より建造が古いのでこの名がある。
尚当社の大規模な社殿の造営ができたのは松平藩第三代頼豊候の時代であった。
爾来学問の神様として一般から尊崇され今日に及んだ。


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